演奏会の感想文について

演奏会の感想文のことを「批評」とよく誤解されてしまうで、何故ここにこんな感想文を書いているのか。 何故いつもアマチュア・オーケストラの演奏会に足しげく通っているのか、について書いておきたいと思います。 かなり長くなると思いますが、興味があれば読んでみてください。

0.イントロダクション

今はアマチュア・オーケストラを中心に演奏会に通っています。
「え、なんでアマオケなの?」「アマオケって下手でしょ」「芸術ってのは一流のものに接しないとダメなんじゃないの」・・・
あちこちのアマオケの演奏会に行っていることを口にすると、よく不思議そうな目で見られます。 その目の奥には、直接こんな風に口には出さないまでも、このような光が浮かんでいることが多くあります。 確かに異様に多くあちこちの演奏会に行っていることは事実ですけれどね。

1.音楽は生き物 〜 大阪シンフォニカーとの出会い

正直に言えば、僕もずっーとそのように思っていました。 特にレコードやCDだけで音楽を聴いていたときはそうでした。
でも、音楽は生き物だという、当たり前のことに気付いたのは、大阪シンフォニカーの特別会員になったことが大きかったですね。
ご存知だと思いますが、大阪シンフォニカーは大阪のプロ・オーケストラです。 ぼくが会員になった当時は認知度が低く、雑誌「音楽の友」にも演奏会評が掲載されていない時期、外国人プレーヤを招聘するまだ前でした。
当時、このオケの主催公演は年に10回ちょっとありました。 それを7年ほど会員となって聴き続けました。
同じオケを継続して聞くことは本当に勉強になりますね。 好きな曲を聴くために演奏会に通うことが普通だと思いますが、それとは違った音楽の楽しみを知ることになりました。
つまり同じオーケストラを聴き続けていると、オケの成長がよく分かります。
このオケを始めて聴いたのが 1991年、会員になったのは確か1993年ですが、ちょうどこの頃からこのオケの飛躍は凄まじいものがありました。 メンバーの入れ替わりや成長による音の変化。 指揮者、演奏曲目とオケの相性などもだんだんと分かってきました。
また、聴いたことのない曲や好きではなかった曲を実演で聴いて好きになることもあります(もちろん逆もありましたが)。 音楽は生き物、演奏会は一期一会であることを実感するようになりました。 だから音楽は丁寧に聴きたいとも思うことにも繋がったと思っています。
残念ながら今では大阪シンフォニカーの会員を辞めてしまいましたが、このことを教えてくれたこのオケと稀代の指揮者トーマス・ザンデルリンクさん、常任指揮者として数々の手腕をふるわれた本名徹次さんについては今もまだ特別な思いを持っていることを付け加えておきます。

2.類型的パターン

ところで、レコードやCDで音楽を聴いてばかりいると、その楽器の響きの向こうに、生き物である人間の姿があるという感覚が乏しくなります。
それに、名演奏と呼ばれるものを無闇に好む傾向も強くなってしまうようです。 
せっかく生の演奏を聴いても、有名な指揮者や演奏家の録音と比べてしまいます。 ここは良かった、悪かった、なんていうような聴き方になってしまいがちになっていました。
するとどうでしょう、批評する能力もないのに(楽器はできない、当然スコアも読めないのに)、演奏を批判しはじめる自分が出てくるんですね。
プロの批評家(評論家とは言えない)の文章にもよくありがちですが、「○○の演奏は良かった、でも□□の部分が△△だったらもっと良いものになった」ってな感じに音楽を聴いてしまう。 ミスも指摘してみたくもなりますしね。 そしてどこかで仕入れた薀蓄も語るようにもなってしまう。
そんな真似事をしてみても所詮しんどいだけなんですけどね・・・だんだんと何のために音楽を聴いているのか分からなくなります。 その演奏会に立ち会ったことに意義がある、知識をひけらかしたいため・・・よく分かりませんけどね。

3.無名演奏家のCDとの出会い

そんな疑問を持つようになっていた頃、当時参加していたNIFTY-Serve(現@nifty)のクラシック音楽フォーラム(FCLA)で、無名演奏家による音楽CDの話題がよく出ていました。
結局のところ幽霊演奏家によるものが大半でしたが(このことは拙サイトの「廉価盤CDの楽しみ」に書いてありますが)、結果として演奏者の肩書きや名前、音楽雑誌などに書かれた評論家の推薦とは関係なく、「自分がいいなぁ」と思って聴くことが総てであることがよく分かった出来事でした。
それまで、演奏者のネームバリューや、評論家の推薦によって買ったCDでも、面白いと思えないものがありました。 これって自分の耳が悪いせいかな。 まだ良さが分からないだけかも・・・などと思っていました。
しかし、評論家の誰も書かない無名演奏家によるCDでも「いいなぁ」と思えるものがあります。 いわゆる自分だけのお気に入りのCDですね。 
FCLAを読んでいたら、そんな無名演奏家のCDについても「この演奏は素晴らしい」という意見を持つ人がいるではないですか。 FCLAに、僕もそう思う、と書いてみたら、他にも同じ意見を持つ人がまた出てきました。 おや、まんざら自分の耳も捨てたものではないんじゃないか、と思えた瞬間でした。
その時、気付いたんです。 音楽って誰のためでもなく、自分の楽しみのために聴いているのだってことをね(遅すぎですね)。

4.良い音楽ってなんだろう

とにかく、ネームバリューが無くても、商業的な路線に乗らなくて宣伝されていなくても、自分にとって「いいなぁ」と思えるものが総てでしょう。
すると、それまで「良い音楽」と何気なく言っていましたが、音楽に「良い」という概念をあてることが間違っていないか、ということに思いあたりました。
レコードやCDを聴く人の中には、例えば、ブルックナーの交響曲第7番の演奏は○○○が何年にどこそこで振ったの演奏にトドメを刺す・・・みたいなことを言う人がいますよね。 仮に、その演奏を「良い演奏」とするならば、それ以外の演奏は「悪い演奏」ってことでしょうか?? 
それは極端な意見でしょう・・・と思われるかもしれませんが、でも、これこそ最高だと思っている人に、「この演奏、僕は好きじゃない」なんて言ったとしたら・・・自分を全否定されたかのように必死で反論する人がいることもまた事実です。 
主観的に「好き」か「好きでないか」と言っているだけなんですけどね。 「悪い演奏」だと言われたように思ってしまうようですね。

5.「好き」「好きじゃない」「どちらか分からない」

音楽を聴いたとき、僕の感想の基本的なスタンスはこの3つです。
「良い」「悪い」であれば、一歩進めると、どこがどのように「良い」、どこで何をしたらから「悪い」との理由付けが必要になってきます。
でも、「好き」か「好きじゃない」かは主観的なことです。 これは、自発的な自分の気持ちの動きですからね、理由なんて必要ありません、そう思ったことが総てです。
そしてこれは他人から強要されるようなものでもありません。 誰のためでもなく自分自信が楽しむために音楽を聴いているのですからね、「好き」というのは本当に良い言葉ではないでしょうか。
付け加えるなら、「好き」の反対は「嫌い」になりますが、他の人が「好き」だと言っているものを「嫌い」だと言うのは野暮というものでしょう。 だから「好きじゃない」と言うようにしています。 もちろん判断がつかないものは「分からない」ですね。
逆に、自分が「好き」だと思っているものについて、他の人から「嫌い」だと言われることもままあります。 でもそれは「自分とは違うんだからね」ってことで納得してしまえば気が楽です。 このように考えてみると、音楽を聴く楽しみがぐんと広がるように思えませんか。 これも当たり前のことなんでしょうけどね、知識や技量優先の学校教育の弊害・・・と言えば大げさかな。
とにかく、このことはFCLA時代に皆さんが書かれているのを読ませていただき、また時には書き込んでみて気付いた事柄です。 皆さんには感謝しています。

6.もっと別のところを聴いてあげなくては

FCLA時代からのお仲間であるHayesさんにこのように言われたことがあります。
当時、HayesさんはFCLAで演奏会の感想文を精力的に書かれていました。 とても分かり易い文章で、音楽の知識はもちろん豊富、スコアがあれば読まれてもいるそうで、読ませていただくと勉強になります。 とにかく読ませていただくことが大きな楽しみなんです。 残念ながら今ではもう感想文は書かれていませんが、今でも感想文を読むために
Hayesさんのサイトを訪れる方も多いのだそうです。
さて、そのHayesさんとある演奏会のあとでお会いしたのですが、生意気にも「(感想文で書かれていた)○○オケのあの演奏会では第2楽章までホルンの音がちょっとズレてましたよね、でも感想文には書かれてませんでした」って聞いたのですが・・・
「そんなことは奏者が一番よく知ってますよ。 だからあえて書くこともないでしょう。」
「ミスがあっても忘れるようにしています、もちろん忘れられないのもありますけどね、でも忘れるようにして、もっと違うところをちゃんと聴いてあげないとね。」
ショックでした。
以来、僕の心の中ではHayesさんのことを勝手に師匠と思わさせていただいております。

7.アマチュア・オーケストラ

いよいよアマチュア・オーケストラとの出会いですが、じつは僕の会社には当時アマオケの団員が2名いました。
でも一番最初に書いたとおり、僕はアマオケって下手だから聴く気は持っていなかったし(すみません)、彼らも強くコンサートに誘うこともありませんでした。
でも、大阪シンフォニカーの会員になって生演奏の素晴らしさを知ったことや、彼らと一緒になってCDの輸入をするうちに僕の意識がどんどん変ってきました。 とにかく、これは凄いことやな、ということに気付いたのです。
いくら趣味とはいえ、仕事と両立させてオケの練習に通う。 休日の家庭サービスも犠牲にして練習に行く。 そして演奏会にかける曲は半年かけて仕上げる。 本番前には合宿もする。 当然これらの時間的な負担に加えて、団費や合宿費用などの金銭的な負担ももちろんある。 こんなの本当に音楽が好きでないとやってられないんじゃないの・・・
なお会社の同僚のアマオケ団員のうち1名は転勤となったのち会社を辞め(大阪に戻って今でも以前と同じオケで活躍中)、もう1名は所属していたオケの団長になったけど忙しくなって退団、練習に参加しやすいオケに移籍したけれど、1年後にはやはり転勤になったのでオケを退団を余儀なくされ、今転勤先で所属できそうな団体を探しているようです。
好きなCDを集め、演奏会にも数多く行っている自分は音楽が好きだと思っていたけれど、それとはまったく次元の違う高さが必要です。 
とにかく頭が下がる思いでいっぱいになります。

8.なぜそんなに多くの演奏会に足をはこぶのか

指揮者の故朝比奈隆さんは、師匠のメッテルさんより、音楽を始めたのが遅いので人よりも長く生きて出来るだけ多く指揮するように言われていたそうですね。
僕は義務教育でしか音楽を習ったことのお気楽なリスナーです。 音楽が好きですが、音楽のことをもっと知るためには、音楽に接する機会をできるだけ多く持つことしかないな、って思っています。 
先にも書いたとおり、大阪シンフォニカーの会員になっていたこともありましたが、転勤の恐怖や(僕は今のところ免れていますがいつまた・・)、仕事の関係で平日の夜には身動きが取れないこともあって辞めてしまいました。
その点アマチュア・オーケストラの場合、演奏会は土日が中心ですから行きやすい。 しかも料金が安い。 それに会場でアンケートを書くと次回には招待状を送ってくださるところもある。 またホームページを読まれた関係者の方からご招待をいただけることも・・・嬉しいじゃあないですか。 
あと、大阪シンフォニカーのところにも書いたように、同じオケを継続的に聴き続けることで得られることが多くあるのを知っています。 だから、一度伺ったオケには、都合がつく限り2度3度と連続して行きたいと思っています。 
そんなことから、どんどんと伺うオケが多くなってきました。 このところ、同じ日に2つも3つもオケの演奏会が重なってしまうこともあって困ってしまうこともあります。

9.感想文について

音楽は、作曲家が音の配列を考えて曲を作り、それを演奏者が実際の音として奏で、聴取者はそれを聞いて楽しむ。 このいずれが欠けても音楽は成立しないと思っています。
僕は、作曲はもちろんのこと、演奏も出来ません。 ただ聴くことしかできない人間、お気楽リスナーであるわけですが、それでも音楽の一端を担いたい気持ちが他人よりもちょっと強くあるようです。 それが感想文として表現したいと思ってしまう根っこのところでしょう。
しかし、こうして振り返ってみても、多くの感想文を書いてきていますね。 自分でも吃驚してしまいます。
これらの中には、これまで述べてきたことと違うんじゃない・・・ってのもあると思います。 である調で書いた偉そうなものや、資料をひっくりかえして緻密に書こうとしたものもあります。でも、それは自分の軌跡としてそのまま残してあります。 
しかし基本的に、これまで述べてきたとおり、演奏会には音楽を楽しむために行っていますので、感想文には聴いてよかったなぁ〜と思えたことしか原則書かないのは同じです。
あと、読まれた方は分かると思いますが、音楽用語がほとんど用いられていません。 
これはわざとではなく、それを知らないからですね。 
批評ではない、と何度も言っているのは、このとおり批評する能力・技術がないからです。 
だから、技術的に巧いオケの演奏会と、それよりも劣るオケの演奏会の感想文を読んだとしても、これによって演奏のよしあしを比較することはできません(もともと比較するものではないと思いますけどね)。 

10.エピローグ

とにかく、伺った演奏会がどんなだったのか、自分が忘れないように書き留めているのがこの感想文です(ここまでエラク長かったのに、すみません、これだけです)。

それでもこの感想文を読まれた関係者の方から、励みになった、と言っていただいたり、都合で行けなかった人が、演奏会の様子がわかった、とか、全然関係ない人でも、行ってみたくなった、と言っていただくことが大きな励みになっています。 
これからも、できるだけ書いてゆきたいと思っています。