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これは岐阜県交響楽団との演奏会の前に依頼を受け書いた私の音楽の基本が全て書いてあります。
自伝でもあります。少々長い文章ですがお読み下されば幸いです。

“音楽”とは何か?

〜岐響に寄せて〜

指揮者 井村 誠貴

 私が中学校を卒業する頃、ある偉大な先輩に、「音楽とは何か?」と聞かれ、意味不明な解答をした私に、「10年後にもう一度聞く。」と言い残した。あれから早13年の月日が経った。はたして答えは見つかったのか?岐響通信という場を借りて、もう一度考えてみよう。ひょっとすると、これが、皆さまのお役に立ち、すばらしい本番を迎えることができるのではと信じて。  それでは「音楽」という言葉の持つ意味は何なのか?“音を楽しむ”誰しもが考えうる発想であり、私自身もすぐに思いついた。広辞苑第3版によると“音による芸術。拍子、節、音色、和声などに基ずき、種々の形式に組み立てられた曲を奏するもの”とある。なるほど確かにこれ以上ない答えである。では、これを理解すれば音楽は成立するのであろうか。今、私達(岐響の皆さんも含め)、音楽を心から愛する者に求められているところの音楽とは、このような形式的な要素ではないことは確かであろう。つまり音の伝達方法の仕組みではなく、何を伝え、何を求めるかが最重要課題であると考える。それが見つかれば「音楽とは何か?」に一歩でも近ずけるのではないかと信じている。

 さて、私が指揮者という立場を名乗る前、一体なんだったのか?人にはそれぞれ“音楽”に出会う瞬間がある。しかし残念ながらそれに気付かず通り過ぎてしまうことも多々ある。私が初めて“音楽”と出会ったのは小学校の頃だと記憶している。それまでにも4歳頃からピアノを習わされていたし、父親の指揮するアマチュアオケにも連れていかれた。“音楽”に出会うチャンスは極めて多い家庭に生まれた。がしかし、いずれもそれに出会ったことに気付かず、通り過ぎるばかりであった。とにかくピアノが嫌いで毎日泣きながら弾いて(殴って)いた。父は叱るたびに「泣いたら許してもらえると思っている」と口癖のように言っていた。そう、許してもらえないとピアノ椅子から降りれなかったのだ。そんな環境に育った私を周囲の人々は「羨ましい」なんて言い出すからどうしようもない始末。“音楽”なんてなければどんなに幸せかとまで思っていた。確かに“音楽”にとってはいい環境ではあった。声楽家の母を持ち、アマチュアながらオーケストラを自分で創り、指揮をしていた父。これ以上ない環境であったのは事実である。父はレコードマニアで、家には5000枚以上のレコードがあったのを記憶している。ある日突然、そのレコードが家から消えたかと思うと、父は、ぼろアパートを貸りレコード屋敷なんて作ってしまうほどであった。これほど情報に溢れかえっていたのに、何故“音楽”に出会えなかったのか?答えは明白であった。これがプレッシャーというものなのであろう。両親を越えられるのか。親の仕事を継いでいく難しさは本人でなければわからない。周囲の人々に「お前は恵まれていていいよね」なんて言われると、「おまえやってみ」と言い返したくなる。毎日、両親という大きな壁を見ながら“音楽”をするなんてとんでもないことだった。どんな素晴らしい環境でも自らが意志を持って行動しない限り、無駄ということである。  

 苦痛も或る日突然、財産に変わることもある。両親が私を生んだ年に父は大阪でオーケストラを創った。父の情熱と努力により、オケは成長し続けた。物心つく前から、私も姉も父に連れられて練習に行っていた。合宿も必ず連れていかれた。とにかく練習中は一人寂しく待つしかなかった。しかし、休憩になるとヴァイオリンのお兄さんやお姉さん、トロンボーンのお兄さんなんかが、一緒に遊んでくれた。これだけが唯一の楽しみとし練習を待った。寂しいはずの練習も、その人達の横に座り、色々楽器について教えてもらったり、吹いてみたり、叩いてみたりと、徐々に苦痛が楽しさに変わっていく。と同時に“音楽”が“遊び”に変わってもいった。気がつくと、ほとんどの楽器の名前や音色、演奏方法も知っていた。ヴァイオリンとヴィオラの違いもわかった。フルートがなぜ木管楽器であるのかということも知っていた。しかし、それ自体に価値があるなんて、当時思いもしなかった。言うまでもなく今、それが自分の財産になっているのである。知らぬ間に“音楽”と出会っていたのだ。  さて、小学校に上がった私は、初めて“音楽”に出会う瞬間を体験した。リコーダーである。自分で音を出す楽しみ、曲を完成させる嬉しさ。難しい部分を練習してできるようになる喜び。どれをとっても最高に楽しい時であった。学校の登下校に笛を吹きながら歩いていたことは言うまでもない。不思議なこだわりもあった。リコーダーを水の中で吹くとどうなる?、頭部管だけで吹いたら?、そこに指を入れ、抜き差し(ちょうどトロンボーンのように)したら?笛を二本一緒に吹いたら?喋るように吹いたら?笛の中に色んな物を詰め込んでは奇妙に鳴る笛を楽しんでいた。今思えばこれが音色なのか?想像にまかせリコーダーを真っ二つに切っては先生や親に叱られた。とにかく色んな音色を探し、人に聞かせることが楽しくてしかたのない程であった。これが“音楽”との出会いである。

 中学校に入ると、決められていたかのように吹奏楽部に入部。ホルンを担当させられたのが不幸の始まり。御存知わたくし、お世辞にも唇が薄いなんていえません。マウスピースに唇が入りません。単にホルンが一人足りないという理由だけで決められてしまい、周囲からは「へたくそ」と罵られ、馬鹿にされ、3年間を過ごした。適材適所でなかった。物事を決めるときには、たくさんの思案が必要だと言うことか。ともかく苦しみの中での3年間を耐えてこれたのも“音楽”が好きであったからであろう。  

 転機がおとずれた。長年アマオケを指揮していた父に、大阪フィルからコンサートの誘いがあった。勿論プロとしてではなく、アマチュアがプロに挑戦という企画であった。父はその話がきた2年前に、オケの指揮者を辞任していた。気が進まなかったことと、何よりも自分自身がアマチュアであることに劣等感を感じていたようである。悩む父の横で、「それなら僕が出る」と言い出したのが、指揮者としての第一歩だったような気がする。当時中学3年生、春の珍事である(大阪フィルハーモニー交響楽団、ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」〜終楽章、ザ・シンフォニーホール)。ともかく、オーケストラなんてものを指揮した最初の体験である。どこにチャンスが落ちているかは、本人にもわからないものだ。これで夢は固まった。

 時が経つのも早いもので、指揮者になりたいと思ってから2年半の月日が過ぎ、高校2年の秋。自分は一体今まで何をしてたのか?意味もなく時間だけが過ぎていた。気が付けば大学受験。ろくに進路も考えていない。頭の中は有名な指揮者になりたいということだけ。では具体的に何をしなければいけないのか?そんなこと考えたこともなかった。周りの勧めもあり音楽大学に進もうという意志だけは固まった。指揮科?とんでもない。ピアノは幼稚園時代の苦い思い出と共に忘れ殆ど弾けない状態。ホルン?唇でも整形するか。リコーダー?これは真面目に考えていたが、指揮者になりたいのならば、せめてオケの楽器で大学に入れと言われ断念。では何が残る?「鍋のフタぐらいやったら叩けるかなぁ」と言うだけで打楽器の道に進むことになる。なんて安易な。しかしこの道も高3の冬に崩れ去る。体育の授業中に靭帯断絶、手術、入院、、、。打楽器での受験を見事に棒に振った。浪人生活に突入。予備校に行くわけでもなく、ただ毎日ブラブラするだけ。見かねた両親は次なる作戦を実行。残された道はただ一つ。受験者数が少なく、しかも自分の身体にピッタリとくればこれしかなかった。コントラバスである。と言うわけで何とか大学までこぎつけた。入学後すぐに指揮の勉強を始めた。ある指揮者の紹介でオペラなんてものを指揮する機会を与えられた。声楽家の母(ソプラノ)を持つ私にとっては、オペラは最大の敵であった。何故か?これも幼児体験と言うべきか。幼いころ家で歌う母の高い声は、騒音の何ものでもなかった。とにかくうるさいのだ。叱る時もソプラノ、笑い声もソプラノという感じであった。中でも母が教えていた受験生に至っては、まさに生き地獄。聞くに堪えない歌がいまだに頭の中に焼き付いている。そんな環境だからこそオペラには猛反発であった。では何故オペラ?それは作品のすばらしさ、そして総合芸術としての奥の深さ、何よりも悔しいのが、オペラが上手く振れなかった事であった。大フィルまで振った男、なんてそれまでは思い上がっていた。がオペラに出会い頭を踏みつけられるような思いであった。ここからオペラとの格闘が始まった。

 オペラにはストーリーがあり、その状況を具体化したものがオケであり、時には主人公の気持ちに共感し、また、絵画でいうところの背景画であり、ともすれば、何かが起こる前兆であったりと、実に具体的に描かれている。心理学の勉強もしてみた、ヨーロッパの歴史は当然知っておかなければならないだろう。イタリア語、ドイツ語も勉強した。オペラに出会うことで色んな知識が広がった。それは人間にとって、とても大切なことに思えた。そんな今がとても充実している。  
 さて、話が私の歴史になってしまったが、実は、これらすべての出来事が言うところの“音楽”なのだ。「音楽とは何か?」一言で置き換えるなら“人生”なのである。それでは具体的に皆さんへのメッセージに置き換えてみよう。  
 まず、音楽をする者として何を伝えたいかである。大切なことは、技術だけを売るのではなく、作品の持つ意味、作曲者の意図、それをどう具体化し表現していくかに尽きるであろう。

次にその環境についてだ。岐響に置き換えるのなら、まさに、あのすばらしい専用練習場ということになるだろう。これ以上ない環境は整っている。が、しかしそれだけの様な気もする。環境は自分自身でより良いものへと変化させ、工夫を凝らす必要があるのだ。今のままでは、ただの広場にすぎないのだ。最後は自分達で作り上げていくことである。そして、この環境を生かすべく人間の集まりであることだ。

 自分自身が自覚していなくても、吸収していることもある。知らぬ間に影響されることがあるのだ。言い換えれば、自分の存在が、他人に大きな影響を与えうるということである。自分の意図とは全く違った意味でとらえられることもあるのだ。それだけに言葉や行動は慎重でなければならない。特にオケをするということは、集団の一人であるという自覚が必要であろう。

 音色を追及すること。こだわりを持つこと。ある実験で日本人とドイツ人の子供に簡単な木琴を与えたところ、はっきりとした違いが生じた。日本人の子供は器用にメロディを演奏してみせた。でもドイツ人の子供は、1時間あまり、ドの音しか叩かなかったというのだ。叩き方によって音色が変わることに夢中になっていたのである。お分かりだと思うが、表面的内容よりも本質的なものへのこだわりが必要だということである。

 そして適材適所であることだ。人間には当然、向き不向きがある。それをどう活かしていくかを考える必要がある。誰でも良いというわけにはいかない。周りが迷惑する以上に本人の心が痛んでいるのだ。  
 チャンスを見逃すな。チャンスは呼び込め。これは、もっと色々なものにアンテナをはりめぐらせろということである。そしてチャンスが来たときに対処できるだけの準備が必要なのだ。よく人は「あいつ運いいなぁ」なんて言うが、運を呼び込む準備が本人にあるからだ。

 今すべき事は何か?私は人生の中でこれをいつも失敗している。オケでいえば、いい演奏の為に今何をすべきかということになる。いつも練習には意味を持って取り組めということだ。「よく練習してるんだけど、、」なんていうケースは少なくはない。練習内容に結果、目標をもつ必要があるだろう。自信を持つことは大切だが、自信過剰になることは大変危険である。いつも自分を冷静にとらえることができるかである。自己判断をしっかりできる事が大切なのだ。  

 一つの物事を自分なりに色んなものへと変換させ、派生させる事が大事である。例えば、一つの要求で10クリアしてしまえば、こんな楽なことはない。応用力が必要だということである。

 いかがでしょうか?若輩者が生意気なことを書いて申し訳ないと思っています。しかしながら私の体験を振り返ってみるだけでも、沢山のメッセージが含まれています。勿論私の体験でなく、皆さん自身の体験がきっと大切なメッセージを持っているはずです。だからこそ“音楽”こそ“人生”なのです。もっと突っ込めば、“音楽人”である前に“人間であるべき”ということです。そしてどんな“音楽”、、、いや、どんな“人生”を多くの人に伝えていくかを大切にしながら、最後は、「音を楽しむこと」だと思っています。今回の岐響の演奏会で何を伝えるのかを全員がしっかりと考えて、邁進していくことが成功への近道ではないかと思っています。  最後に、今回、歴史ある岐響に呼んで頂いたことに心から感謝しています。少しでも皆さんの御期待に答えられるよう精一杯頑張りたい、、、いやいや楽しみたいと思っています。私の理想は巧い演奏ではなく、来て戴いたお客様に、一人でも多く感動してもらえる演奏、喜んでもらえる演奏です。そして何よりも“音楽”を続けていく喜びを実感できる演奏です。最高にすばらしい一日になることを祈って。    

1999年5月28日(金)   井村 誠貴